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18.猿寺
18.猿寺
寺院名:正行院(しょうぎょういん)
通称名:猿寺(さるでら)【非】
所在地:京都市下京区東洞院通塩小路下ル
電  話:075−351−7885
バス停:京都駅前
地下鉄:京都
J R駅:京都
 地図 01800_1
 写真p            写真q
01800x_1 写真pで、「ルネサンスビル」と「ぱるるプラザ」の間を通る細い道の奥に見える3階建は写真qの「有限会社 萩乃屋」社屋です。
写真qで、「有限会社 萩乃屋」と「有料駐車場」の間(丁度、人が歩いている所)を進めば、前方に輪形地蔵のお堂が見えます。

 ポルタ地下街の東部案内図
01800y_1
道案内:「京都駅・歩5分」、これは不動産屋の店頭に掲げられたチラシの謳い文句ではありません(笑)著者が実感した正行院の立地条件です。
JR京都駅ビル東側の一角に取り残されたような古い町並の中で、正行院は静かに佇んでいます。それだけに解り難いので地図に朱線で示した道順を詳しく説明します。
JR京都駅ビルの烏丸中央出入口やバスターミナルから駅ビルの建物沿いに右(東)へ歩き、京都劇場の前を通り過ぎると「ぱるるプラザ」と表示されたビルに行き当たります。左(北)隣の三角形のルネサンスビルとの間の細道へ右(東)折する(写真pを参照)と、すぐに東洞院通に突き当たります。通りの向い側は駅弁の老舗として知られる「萩乃家」の社屋です。萩乃家と有料駐車場の間の道へ入り更に東へ進む(写真qを参照)と、程なく後述する輪形地蔵堂に達し東隣が目指す正行院です。
なお、地下鉄利用の場合は、「ポルタ地下街の東部案内図」を参照してください。北改札口を出て朱線に従い北通りと東通りの交差点より更に東側(即ちポルタ地下街最東端)の階段を上りましょう。途中の踊り場で左右に分かれますが、左を採ると地図のp地点(写真pに記した地下街階段)へ上がれます。
拝  観:正行院の建物内を拝観する際には、事前に電話をして日時を調整し予約する必要があります。
由  緒:住職がスライドを映写しながら正行院・猿寺の縁起を説明してくださる事で拝観が始まりました。以下は頂戴したパンフレット「猿寺縁起」の記事を参照しながら記述します。
正行院は天文7年(1538)に、円誉道阿上人が東塩小路村の人達に招かれて開山された浄土宗捨世派に属する寺院です。
現存の本堂は、寛永年間(1624〜1644)に徳川家光が旧伏見桃山城遺構の一部を寄進して、改造・移築したものと伝わります。
「猿寺縁起」に依れば「猿寺」という通称の謂れは以下のようなものです。
円誉上人は、若い頃に京都北山中川の里で庵を結び、念仏一筋の修行をしておられました。庵の周辺に棲む動物達は上人に懐いて出入し、柿や栗などの木の実を運んで来ました。
或る日、庵の裏の谷間で猿達が危急を告げる「キーキー」という鳴声が聞こえたので行って見られますと、手に自然薯を握った猿が大岩に押し潰されて死んでいました。上人は「この猿は私に自然薯を呉れようと思って、あまりに深く掘り過ぎたので岩が地面から浮いて崖下に落ち、猿も諸共に落下して災難に遭ったのであろう。」と判断されました。そこで上人は猿を葬り弔ってやられました。
上人は他の猿達が同様の危難に遭わぬように、また、猟師に捕えられないようにと、小さな紙切れに「南無阿弥陀仏」の名号を書き首輪に巻込んで授けられました。
時が過ぎて、上人が正行院の住職になられてから30年余りが経過した元亀2年(1571)頃の事です。
上京の柳原(現在の地理で言えば地下鉄鞍馬口駅の南西100m〜200mの辺り)に住んでいた又十郎という猟師が、北山の奥へ獲物を求めて出掛けました。幸いにも大猿を発見したので弓に矢をつがえて射ち獲ろうとしました。ところがその猿は、不思議なことに首に掛けた輪を引っ張って両手を合わせ拝むしぐさをしたのです。吃驚した又十郎が「その首輪は何か?それをよこせば命を助けてやる。」と告げますと、猿は首輪を抜き取り又十郎の方へ投げて素早く逃げました。
又十郎は早速首輪を開けて中の紙切れを見付けましたが、当時の人に多かった文盲ですから字は読めません。帰り道で一人の僧侶に出会ったので、今日の出来事を話して紙切れを見せました。
すると僧侶は「これは正行院の住職をしておられる円誉上人が書かれた『南無阿弥陀仏』の名号に間違いない。猿でさえも有難いものと思って持っていたお蔭で命が助かったのです。お前さんは、毎日のように動物を捕え殺し、殺生をしているので、これほど重い罪は無い。これを縁に今まで殺した多くの動物の供養をしてあげなさい。」と諭してくれました。
又十郎は深く悔いて、その場から正行院を訪ね円誉上人に弟子にしてほしいと頼みました。出家剃髪した又十郎は「円心坊」の名を貰って念仏修行に励み、動物達の供養をしながら正行院で一生を終えました。
円誉上人は天正12年(1584)11月6日に、当時としては長命の87歳で亡くなられました。
その後の正行院では、この話を語り伝えて猿の持っていた名号も拝めるようにしました。そして、お参りの人達の間で正行院を「さるでら」と通称されるようになりました。
時代が更に下って明治になりますと、官営鉄道の敷設や市内電車の開通により寺の境内および周辺は大きな変貌を遂げます。
明治10年に開業した京都停車場(愛称:七条ステンショ)は、現JR京都駅より北寄りのバスターミナルの辺りに在り、塩小路通に面していました。神戸〜京都だった当初の線路が明治12年に東方へ延伸されましたが、当然線路も現在の東海道線よりは北寄りでしたから、山門の北側をシュポッポ、シュポッポと煙を吐いて汽車が通ったと、現住職は古老から聞いておられたそうです。
また、明治28年には、チンチン電車と親しまれた日本最初の市内電車(当初の社名は京都電気鉄道で、後に京都市電に買収・統合されました)も境内から発車しました。(写真S参照:現在の寺域からは外れますが、萩乃家前の東洞院通を北上して塩小路通へ出た西角に「電気鉄道事業発祥地」の記念碑が建っています。)
これら近代の歴史についても、貴重な写真をスライドで拝見しながら住職の説明を伺いました。
庫裏へ戻ると廊下などに、彫刻、人形、その他、猿に関する沢山の資料が所狭しと展示されていました。その多くは檀家さんや信者、知己の皆さんから寄進されたものだそうで、産地は全世界的な範囲に亘っています。写真H〜Lで、その一部を紹介しました。
山門外の西側には「輪形地蔵」の小堂が建っています。
安土桃山時代から江戸時代にかけて、京の都で消費される米塩その他の諸物資は、大坂で船積みされて淀川を遡り、伏見京橋の河港で陸揚げして牛車や馬車に積み替え運ばれました。その輸送ルートとして利用されていたのが正行院西側を通る竹田街道(東洞院通)でした。
当時の竹田街道沿いには藍染川が流れていた(写真R参照)ため、時によっては氾濫して道路が泥濘と化し、重荷を積んだ車を牽く牛馬が難渋したといいます。その対策として凹形の溝を彫った石を道路に敷き詰めて、車馬交通の便を図りました。牛車や馬車の車輪が溝の中を通り、あたかもレール上を走るように難なく進むことが出来たのです。この敷石の事を東塩小路村の人々は「輪形の石」と呼んでいました。
慶長5年(1600)の事です。或る村人の夢枕に老僧が立ち、「我は今まで永い間、泥土の中に身を沈め、牛馬の交通の重苦を救うため、また、庶人の往来の安全を守ってきたが、今まさに世人を導き助ける時が来たので掘り起こしてくれ。」と告げられました。
村人は不思議な事と思い、夜も明けぬうちに起きて表の竹田街道を見ていますと、「輪形の石」の一つから御光が差していました。その「輪形の石」を村人数人がかりで掘り出してみましたら、立派な地蔵石像が出土して、その背中には「輪形」が刻まれていました。
その後、村人たちの篤い信仰を受けて「輪形地蔵さん」は路傍の小さなお堂で祀られてきましたが、昭和8年に京都駅周辺の人々が志を合わせて現存の立派な地蔵堂を建立しました。
01801_1 @狭い通に北面して真新しい山門が建ち、奥に庫裏の玄関が見えています。
01803_1 B庫裏の前庭には寺の方が丹精された花木が並んでいます。
01805_1 D住職から頂戴した「正行院 猿寺縁起」パンフレットの表紙です。

01807 F円誉上人が未だ若かった頃、京都北山中川方面の庵で念仏修行をされていた際に、用いておられたといわれる称名石が寺宝の一つとして残されています。
念仏を唱えながら普通の金属製鉦ム(伏せ鉦:ふせがね)を叩くと、その甲高い音色で猿や他の動物を驚かせてはいけないとの温かい配慮から、低音を発する石を叩いて称名されたとの逸話が伝わっています。





01809 H本堂から庫裏へ戻ると、廊下に並べられた大きな戸棚に猿に関係したコレクションの数々がギッシリと詰められていました。
01811 J戸棚に「この中に七猿」の張り紙がしてありました。張り紙の上側に四猿、向って左側に黒っぽい小型の五猿が展示されています。合計九猿の中には同じポーズの猿がダブっていますので、七猿なのだそうです。これに本堂の円誉上人坐像の膝に居た合掌猿(写真E)を加えると八猿全部が揃います。
01813 L猿の面などは吊下げられています。

01815 N境内に在る佛足石です。
01817 P地蔵堂内に祀られている輪形地蔵尊像です。両脇には西国三十三ヵ所の観音像も併祀されています。これらの観音像は、竹田街道の出口にあたる竹田口の茶屋に天保13年(1842)から安置されていたのを遷したものです。
01819 R正行院に伝わった「竹田街道図絵馬」の複写です。安政2年(1855)に画かれたもので、東塩小路村付近の竹田街道を米俵を積んだ牛車が洛中へ向かって進む様子を描いています。街道に「輪形の石」が敷き詰められているのが分かります。東側に藍染川が流れ、その更に東には正行院と思われるお堂も描かれています。
01802_3 A山門の左柱に掲げられた門札には「さるでら 正行院」と書いてありました
01804_1 C伏見桃山城の建物を改造・移築したと伝わる本堂です。
01806_1 E合掌されている円誉上人坐像の膝に、同じように合掌した姿の猿が「チョコン」と載っています。
01808 G「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の「三猿」に関する教訓は、お寺以外でも世間一般で耳にするところです。正行院では「八猿正道」の教えを説いておられ、本堂や庫裏の随所に掲示が為されていました。
01810 Iこれで終わりかと思っていたら、隣室の廊下にも戸棚が置かれていて、猿、猿、猿のオンパレードです。
01812 Kそれぞれの戸棚の上にも、入りきらないコレクションや大型のものがはみ出していました。





01814 M庫裏の外には親子猿の石像が据えられていました。
01816 O輪形地蔵尊の像を祀るお堂です。
01818 Q輪形地蔵堂の前には、かって竹田街道に敷いてあったという「輪形の石」が据えられています。



01820 S高倉塩小路の交差点南西角(ルネサンスビルの北東角)に設けられた「電気鉄道事業発祥地」の碑です。文面は『日本最初の電気鉄道はこの地に発祥した。即ち明治二十八年二月一日京都電気鉄道株式会社は東洞院通り七条下る鉄道踏切南側から伏見下油掛通りまで六キロの間に軌道を敷き電車の運転を始めた。(以下省略)』















































































































































































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