171付録 大雅堂と芭蕉堂
171付録
大雅堂と芭蕉堂
先ず、171.雙林寺の本文に掲げた図絵1を下に再掲します。
この図絵1は元治元年(
1864)に刊行された『花洛名勝図会』掲載の雙林寺ですが、建物などの名前は読み取
り難いので白抜きにして活字で表示しました。
図絵1
上の図絵1
下端中央から斜め上方へ横切っている道を目で辿りますと
、道の左側に「大雅堂」が、そして突き当たりには「ばせを(芭蕉)堂」が画かれていま
す。これらは何れも雙林寺の境内に位置していることが明らかです。そして雙林寺とも深
い関係を持っていました。
1.大雅堂について
由緒:大雅堂
と言えば、江戸時代中期の文人画家として著名な池大雅(注1参照、ここをクリック)を想起します。と言っても、この大雅
堂に彼が住んでいたという訳ではないのです。池大雅の没後に彼の知己や門人達が造立し
た、現代風に表現するなれば「池大雅記念館」と称すべきものでしょうか。
若年時の池大雅(通称は池野秋平)は知恩院の門前町で母親と住んでいました。我流で書
いていた絵画を知恩院や祇園感神院(現在の八坂神社)、更には雙林寺境内辺りで露天販
売して生活の糧を稼ぎ出していたようです。祇園感神院の境内には「松屋」という茶店が
在りました。秋平より20歳ほど年長の柳沢淇園(注2参照、ここをクリック)は既に大成した画家として松屋の馴染客だったよ
うです。何らかの機会に秋平の作品を見た淇園は、その才能を見抜いて自身の得意とする
中国文人画を教授・指導しました。後に日本の文人画の名手として池大雅が大成する素地
は、この頃に形成されたのでしょう。
松屋の2代目当主は百合(注3参照、ここを
クリック)という女性で歌人としても著名な人でしたが、彼女もまた大雅の画の素晴
らしさに感じ入りました。百合の娘の町は淇園から画を学んで、既に玉瀾(注4参照、ここをクリック)という画号でデビューし
ていましたが、百合の勧めで大雅に嫁ぎました。
百合は、松屋が在った祇園感神院境内から少し南寄りの下河原町に住居を構えており葛覃
居(かったんきょ)と名付けていました。玉瀾も当然そこで生まれ育った訳です。大雅も
結婚後は下河原町へ住所を移して玉瀾と同居していますから実態は入り婿の状態だったの
でしょうか?。結婚・引越の時期は不明ですが大雅の実母が宝暦9年(1759)に亡く
なっていますから、それ以後の事だと思われます。
左は、国際日本文化研究センター所蔵「近世畸人伝」に収録されている大雅と玉瀾の画像
です。雑然とした部屋の中で着流しの大雅が三味線で弾き語り、玉瀾は琴で伴奏していま
す。奇人伝に載るほどの人達ですから本文には様々な奇行が紹介されており、「世づかぬ
家のうちのさまなりき」とも書かれていますので、世俗に染まらず自分たちの世界に楽し
く生きた夫婦だった様子が窺われます。
雙林寺の塔頭長喜庵の当時の住職謙阿明亮も大雅ファンの一人であったらしく、未だ少年
だった法嗣の月峯辰亮(注5参照、ここをク
リック)に勧めて、既に晩年を迎えていた大雅を師匠として画を学ばせました。
安永5年(1776)に大雅が歿し、妻の玉瀾も天明4年(1784)に亡くなった後、
大雅の遺風を顕彰する堂を設けようとの議が知己や弟子達の間で起こりました。
古くから大雅の弟子であった青木夙夜(注6
参照、ここをクリック)などが主導し、既に青年となっていた月峯も参画して、堂の
建立場所は雙林寺境内の一角と定まりました。
高台寺境内霊山の歌仙堂(注7参照、ここを
クリック)遺構から柱の礎石などを貰い受けて雙林寺山門の北側へ運び、ここに2層
の堂を建てて歌仙堂の俤を残しました。また、大雅が生前に用いた「大雅堂」の篆刻印を
模して造った瓦を軒に葺き、別室に金銅製5寸5分の観音菩薩像を祀りました。
青木夙夜は堂を守って大雅堂2世と称し、以降は大雅堂の名跡を雙林寺の月峯辰亮、その
長男の東山義亮、次男の大盧清亮、清亮の子の金玉山房定亮と順次に受け継いで明治末年
に至りました。
しかし、大雅堂の建物自体は円山公園拡張のために明治36年に取り壊され、無くなって
しまいました。
ここに171.雙林寺の本文に掲げた地図2を再掲します。現状では、この地
図2や下側の写真、大雅堂@〜大雅堂Gに示すように石碑
のみが建っています。
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大雅堂@これは、171.雙林寺の道案内R7の写真に示したものと概ね同一地点です。
即ち、この写真下部の道は東大路通から来た道、左(北)へ曲がれば円山公園方面へ、直
進すると雙林寺へ行けるのです。
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大雅堂B左(西北)側の道路脇を見ますと、鉄柵の向うに何やら石碑の様な物が見えます
。
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大雅堂D奥の方に在る背の高い石碑が大雅堂の古跡を示すものですが、場所が狭いので正
面から全体を写す事が出来ません。
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大雅堂F石碑の裏から撮りました。この石碑は大雲院の山門と向かい合わせに建っている
事が判りますね。
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大雅堂A隣に掲げた大雅堂@の写真中央やや上に掲示板らしきものが小さく写っています
が、その辺りだけをアップで撮ったのが、こちらの写真です。左(北)への小道へ入って
みましょう。
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大雅堂C石碑側に近づいてみると、高低2基のものが並んでいることが判ります。
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大雅堂E文字の刻まれている部分のみが、やっと正面から撮れました。変体の文字で「大
雅堂舊址」と記されています。碑の後側は円山音楽堂敷地内です。
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大雅堂G大雲院山門前の道路から石碑を写しました。「址」の字が生垣に隠れて見え難い
です。
2.芭蕉堂について
由緒:「
171.雙林寺」の本文に書きましたように平安時代末期〜鎌倉時代初期の歌人として知
られる西行法師は、当時の双林寺塔頭蔡華園院内に在った庵に住んだ時期が有ると言われ
ています。その頃、後世に芭蕉堂が建った辺りには阿弥陀房と称する上人が庵を結んでい
たそうです。そこを訪ねた西行法師が『柴の庵ときくは賎しき名なれども世にこのもしき
住ゐなりけり』と詠んだのが、西行法師の歌集である「山家集」に載せられています。
江戸時代前期の著名な俳人である松尾芭蕉は西行法師を敬慕して同様に諸国を旅する生涯
を送りましたが、この地に立ち寄った際に上記の西行法師の作品を踏まえて『柴の戸の月
やそのまゝあみだ坊』の句を彼の句集である「小文庫」に残しています。
松尾芭蕉が亡くなって89年後の天明3年(1783)、かねてから芭蕉風俳諧への復古
を唱えていた加賀金沢の俳人高桑闌更(注8
参照、ここをクリック)が上洛を果し、この地に芭蕉堂を設立しました。闌更は本職
の医業の傍ら芭蕉堂を俳諧の活動拠点として、毎年3月桜花の咲く頃に花供養会を催し多
くの俳人たちと交流を深めました。寛政7年(1795)、同時代の俳人として著名な小
林一茶も芭蕉堂を訪ねて連句の会を行っています。(専門用語では「歌仙を巻く」という
そうです。)
高桑闌更が亡くなった後は弟子の成田蒼虬が芭蕉堂2世を称し、以降、簗瀬千崖(3世)
、北村朝陽(4世)、北村九起(5世)、河村公成(6世)、内海良大(7世)が庵主の
地位を受け継いで明治の初年に至ります。
「1.大雅堂について」で
述べましたように大雅堂は取り壊されましたが、芭蕉堂については名跡を伝える「芭蕉堂
西光院」という寺院が概ね元の位置に建てられています。(地図2参照、ここをクリック)
この西光院は、寺伝に拠りますと平安時代末期に三条天皇の第4皇子であった西光明院性
信法親王(注9参照、ここをクリック)
が開創されたと称されます。江戸時代の元禄15年(赤穂浪士討ち入りの年)に西隠法師
によって中興されて諸堂悉く整ったとも伝わります。現在地名で言えば、京都市上京区仁
和寺街道御前通東入ルに在りましたが、何時の頃からか寺運が衰退して昭和20年代の頃
には荒廃の極みとなりました。当時の住職であられた全明尼は実姉の義彰尼が京都市下京
区の東洞院七条下ルに所在した常光庵で住職をされていたのに託されて、寺の復興と御本
尊や諸尊の護持を願われました。当時の常光庵は、京都タワーから直線距離で200mぐ
らいという都心部の寺でしたから静寂の地を求めて移転を計画され、平成4年に現在地の
京都府城陽市寺田大川原へ伽藍が整備されました。西光院も同じ伽藍内に在り頂戴したパ
ンフレットの表面には「来迎山 常光庵」と「大聖山 西光院」の名が仲良く記されてい
ます。本堂の入口には「常光庵」と「西光院」の扁額が左右に並んで、内部に常光庵の御
本尊阿弥陀如来立像と、西光院御本尊である御丈7尺8寸の巨大な阿弥陀如来金銅座像が
祀られています。
このように西光院の本院は城陽市に所在しますが、一方で別院を新築された所が旧来の芭
蕉堂と同じ敷地なのです。なお、門前に立っている駒札(下の写真芭蕉堂Aに示していま
す。)に「毎年4月12日には花供養、11月12日には芭蕉忌が行われる。」旨を書い
てありますが平成22年現在は行われていません。
以下、芭蕉堂 西光院関連の写真をご覧ください。
なお、常光庵・西光院のホームページは、ここをクリックするとご覧になれます。
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芭蕉堂@上部に示した「大雅堂A」の写真を撮った位置から公園柵内に足を踏み入れて振
り返った状態で撮りますと、道路の向かい側に写真の様な門と建物が写ります。
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芭蕉堂B駒札と郵便箱に書かれた文字によって、この地が芭蕉堂の故地であり、現在は西
光院である事が知れます。
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芭蕉堂A「芭蕉堂」と題した駒札が門前に掲げられています。「堂内には、蕉門十哲の一
人、森川許六が刻んだ芭蕉の木像を安置する。」と書いてありますが拝観不可です。
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芭蕉堂C写真右端の茅葺建物が再建された芭蕉堂であるらしく、奥に見えるのは西光院別
院でしょう。
注1:池大雅(いけ の た
いが):享保8年(1723)に、京都北
郊深泥池付近の農家で池野嘉左衛門の子として生れ幼名は又次郎と呼ばれました。父は銀
座の下役人も勤めましたが又次郎が4歳の時に病没しました。母は又次郎を連れて婚家を
去り知恩院門前の借家に住んだのですが、又次郎は幼時から既に画才が有ったようで、1
5歳の頃には扇子に絵を描き諸所で露天販売することで生計を立てたと言われています。
長じては通称を秋平と称しましたが、画家柳沢淇園に見出され指導を受けて大成する経緯
や、妻となった玉瀾と彼女の母の百合、更には長喜庵住職謙阿明亮との関係など、既に
由緒の文
章で述べましたので再度ご確認ください。彼の作品として夥しい数の物が伝わっており、
現在国宝に指定されているもののみを取り上げてみても「山水人物図(高野山遍照光院)
」「楼閣山水図(東京国立博物館)」「十便十宜図のうち十便図(川端康成記念会)」が
あり、そのほかに国の重要文化財指定を受けているものも10指に余ります。「大雅堂」
、「待賈堂」、「三岳道者」、「霞樵」、「池無名」など、多くの画号を使用しました。
没年は安永5年(1776)で、寺之内通千本東入ルの浄光寺に墓所が営まれました。
通称:大雅寺、ここをクリッ
クするとご覧になれます。
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注2:柳沢淇園(やなぎさわ きえん):
甲府柳沢藩の重臣であった曽根保格の子と
して宝永元年(1704)に江戸藩邸で誕生し、元服後は曽根里恭と名付けられました。
重臣の子として英才教育を受け、文武に優れた人だったようです。絵の師も幼時から与え
られましたが、これに飽き足らず中国画法を学んで、その道の一人者となります。画号は
主家の苗字を戴いて柳沢淇園を称し、その他に広美、公美、竹渓、玉桂などの号も用いて
います。柳沢藩が大和郡山へ転封となったのに伴って里恭も郡山へ移り、長じては国許の
重臣として藩政に寄与しました。しかし遊里や宴会が大好きで不行跡が相次いだため、家
督相続を一時的に差し止められるなどの失敗も有ったようです。宝暦8年(1758)に
郡山で没しました。由緒へ戻る
注3:百合(ゆり):元禄7年(1694)生まれで伊賀の出身とも伝わりますが定か
でありません。祇園感神院(現在の八坂神社)の境内に梶という女将が経営する茶店が在
りましたが、百合は梶の気に入られたようで養女となり後に店も継ぎました。著名な歌人
である冷泉為村に学び、享保12年(1727)に歌集「佐遊李葉(さゆりば)」を出版
しています。一方では上洛中であった徳川幕府旗本の徳山氏と通じて同じ享保12年に女
子を産みました。任期を終えて江戸へ帰る徳山氏に同行を勧められますが、彼女は断って
養母譲りの茶店「松屋」を経営しながら女手一つで娘を育てます。この娘が成長して後に
池大雅の妻となる玉瀾です。また、彼女は松屋が在った祇園感神院境内から少し南寄りの
下河原町に住居を構えており葛覃居(かったんきょ)と名付けていました。この葛覃居に
は、やがて池大雅と玉瀾が住むのです。百合は明和元年(1764)に没しました。
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注4:玉瀾(ぎょくらん):百合の項
に記しましたとおり享保12年(1727)生まれで、町と名付けられました。歌人であ
る母の影響を受けて和歌に親しむと共に、絵を柳沢淇園に学び、師匠の号の一つである玉
桂から一字を貰って玉瀾と号しました。国際日本文化研究センターがデータベース化して
一般に公開されている平安人物志の安永4年(1775)版、画家の章を見ますと、円山
応挙、伊藤若冲、池大雅(池無名)、与謝蕪村、嶋田元直に続いて「玉蘭女 池無名妻
徳山氏 祇園下河原」と書いていますので、当時の彼女は在京の画家としてbUにランク
付けされた大家であった事が判ります。天明4年(1784)に亡くなり、墓は母の百合
と一緒の金戒光明寺塔頭西雲院に在って夫の池大雅とは別々です。なお、京都三大祭の一
つとして、例年10月22日には時代祭の行列が京都御所建礼門前から平安神宮まで市内
中心部を練り歩きますが、その中で「江戸時代婦人列 」には玉瀾と祖母の梶に扮した女
性が登場します。
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注5:月峯辰亮(げっぽうしんりょう):
宝暦10年(1760)年の生まれで、幼くして雙林寺に入り塔頭長喜庵住
職、謙阿明亮の後継者となりました。本文にも書きましたように、謙阿は予てから昵懇だ
った池大雅に月峯を入門させて絵を学ばせました。画号は菊潤ですが可有斎とも称しまし
た。篆刻にも優れた作品が残っています。池大雅の死後に雙林寺境内へ大雅堂が創設され
、初代堂守の青木夙夜が去った後には後を享けて大雅堂3世と称しました。天保10年(
1839)に80歳の高齢で没しました。由緒へ戻る
注6:青木夙夜(あおきしゅくや):
池大雅の最も古い弟子だと言えるでしょう。夙夜の従兄の韓天寿は池大雅の友人で一緒に
富士山や白山、立山に登山するなど親密な間柄でしたから、夙夜はこの従兄を通じて池大
雅と知り合い弟子になったようです。そして師の大雅や妻の玉瀾が没した後に、その遺徳
を偲ぶ為の草堂として雙林寺境内に大雅堂を設立し、自ら大雅堂2世を称した事は本文で
述べたとおりです。寛政12年(1800)には池大雅の25回忌を主催しています。人
物の肖像や山水画を得意とし、画風は師の池大雅と異なって細密な描写を行いました。ま
た師である池大雅の作品を鑑定するのに適しており、模写にも優れていたようです。最晩
年には京都を去って伊勢の松阪へ住みました。生年は不明ですが、亡くなったのは享和2
年(1802)です。由緒へ戻る
注7:歌仙堂(かせんどう):現在の
歌仙堂は高台寺西方の塔頭圓徳院境内に建っていますが、当初の位置は東方の高台寺境内
霊山に在りました。豊臣秀吉の妻ねねの甥に元の名を杉原勝俊という人が居ました。秀吉
の生前に彼の本姓である木下姓を賜って木下勝俊と称し、また、秀吉の朝鮮出兵(文禄
の役)に従軍した功により若狭国で8万石の領地と後瀬山城(現在の福井県小浜市に所在
しましたが後に廃城)を与えられました。秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いの前哨戦では
東軍に属して伏見城を守っていましたが、敵が攻めて来る前に逃亡したため戦後には領地
を没収され、既に出家して高台院と名乗っていた叔母を頼って上洛し歌仙堂を造って歌作りに勤しみました。
武将としては甚だ芳しからざる評判を後世に残した人ですが、歌人としての業績は立派な
もので、林羅山や松永貞徳、小堀遠州など多数の文人と親交を持っていました。由緒へ戻る
注8:高桑闌更(たかくわらんこう):
享保11年(1726)に加賀国金沢の商家に生まれ本名は忠保と言いまし
た。加賀は芭蕉風俳諧の影響が強い所でしたが、その一員である和田希因を師として学ん
だ忠保は、これに飽き足らず更なる芭蕉風復古を独自の持論として唱えます。やがては故
郷や家職も捨てて江戸へ出ますが、更には上洛して医者を開業したのです。天明4年(1
784)には東山雙林寺境内の一角を借りて芭蕉堂を設立し、蕉門十哲の一人である森川
許六が自ら刻んだと伝わる芭蕉像を安置しました。天明6年(1786)以降には毎年3
月12日に芭蕉堂で花供養会を催して多くの俳人を集め、また、句集『花供養』や多くの
著書を残すなど後世の俳壇に対して多大な影響を与えました。更には二条家から花の本宗
匠の称号を許されています。絵や書は池大雅に学びました。寛政10年(1798)に亡
くなって高台寺塔頭の月真院に葬られています。由緒へ戻る
注9:性信法親王(しょうしんほうしんのう):
平安時代後期の寛弘2年(1005)に三条天皇の第4皇子として誕生し諱
は師明と申されます。寛弘8年(1011)には親王の宣下を受けますが、寛仁2年(1
018)になると出家して治安3年(1023)に仁和寺大僧正である済信から伝法灌頂
を受けて仁和寺第2世門跡となりました。後冷泉天皇の病気に際して修法により平癒させ
るなど優れた験力を持った人だったようです。応徳2年(1085)に亡くなりました。
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